国民に広がる円への不信

 今年(2022年)7月のある日の事。「私は仕事柄、海外勤務があったり、帰国してからも外国出張を繰り返す生活だった。それもあって金融資産は半分が米ドル、そして残りが日本円だった。今回の様な異常なドル高(円安)では、何か法外な利益が転がり込んでいる様な気分になります」と冗談を飛ばすのは旧大蔵省(現財務省)で国際金融担当のトップを勤めた官僚。
 そして同じ頃、もう1人。東京・日本橋の日本料理店の経営者。「今回、銀行預金は殆ど米ドルに変えました。又、私の様な零細企業の経営者が万が一に備えて、従業員の退職金などのために契約している生命保険もアメリカの保険会社に替えようと思っています」と語る。
 今年に入って円はドルに対して、市場介入を受ける事はあっても、今や30%前後の急落(暴落)となっている。これまでの円安局面と異なるのは日本料理店の経営者の様な一般市民の反応だ。万が一、日本国民の多くが円を売ってドルを買う動きに走ったらどうなるか?
 実は、南米の国などに実例がある。そこでは、現地通貨は最早、通用せず、米ドルが幅を利かせ、なんと、ビットコインなどデジタル通貨決済に頼る動きもでた。背景にあるのは国への不信だ。
 今回の円の急落は、恐らく多くの日本人が今まで思ったこともない「日本は信頼できるのか?」という疑問を提起した。
 日本を襲った円の急落という波は、想定外の国際環境の激変という、いわば巨大な地震が引き起こした大津波だった。想定外は二つあった。一つは2020年春、中国から世界へ拡大した新型コロナウィルスが原因のパンデミック。そしてもう一つは今年2月24日に突発したウクライナ戦争だ。
 パンデミックはグローバルに死者を拡大し、各国政府は人の動きと経済活動を停めた。そして、どこの政府もワクチン開発など医療費に、又、経済活動の停止に伴う人々の生活費などにほぼ際限なく巨額の財政資金を投入した。実はこの時、この巨額のマネーがやがて世界に急激なインフレーションを引き起こすと気づいた人は殆どいなかった。
 そしてもう一つの想定外。ロシアのプーチン大統領が始めたウクライナ戦争は世界の商品市況に激震をもたらした。穀物、LNGなどエネルギー資源はじめ多くのモノが激しく値上がりした。
 インフレーションについて、去年の夏頃、アメリカのイエレン財務長官もパウェルFRB議長も「まもなく収まる」と楽観的だった。だが当時、恐らく専門家ではただ1人、ハーバード大学のサマーズ教授(元財務長官)が警告を発し続けた。果たせるかな一年後、今年の夏にはアメリカは40年ぶりという激しいインフレーションに襲われ、イエレン、パウェル両氏が「間違えた」と公式に語る事態となった。
 そして、アメリカはこの時を境に、ハードランデイングと呼ばれる急激な金融引き締め、大幅な金利引き上げの“連打“に入った。同じくインフレーションの急襲を受けたヨーロッパはじめ多くの国がアメリカを追った。こうした中、日銀(日本銀行)だけがこれまで通りの低金利を維持、アメリカなどとの金利差はあっという間に拡大して、円の急落(暴落)となった。
 なぜ日銀は何もしないのか?あるいは、何もできないのか?黒田日銀総裁は「日本経済は未だコロナ禍から復興していないので金利引き上げは出来ない」などと記者会見で説明しているが、これを額面通り信じる専門家は少ない。
 日本の国債発行残高は既にほぼ1000兆円。亡き安倍首相と黒田日銀総裁がこれまで10年近く進めた財政・金融政策の実行に伴う部分が大きい。1000兆円は日本のGDPのほぼ2倍、世界でも頭抜けた比率だ。もし、ここで日銀が円安対策として金利を引き上げたら何が起こるか?
 国債は、実体として日本国民からの借金なので当然だが、金利引き上げで国民への利息の支払いが増える事になる。つまり国のコストは増える。1%増えるだけで3兆円という財政専門家の計算もある。
 又、実は、日銀は市中銀行から巨額の預金を預かっている。準備預金制度といわれるものだが、日銀の金利引き上げにともなって当然、市中銀行への利払いも増加、日銀の財務を悪化させる。もし、この状態が続くと数年で、日銀は債務超過に落ち入るという計算もある。
 日銀の金利引き上げは国の財政コストを上昇させ、更に、日銀の財務を悪化させる。恐らく、日銀は、円安は何とかしたいが、各国の様に金利引き上げはできないという袋小路に入ってしまったのではないか。
 国(財政)と中央銀行(日銀)が大きな難題を抱えているという事は、海外の投資家だけでなく、最早、多くの日本人がわかり始めた。円を持っていてよいのか?国債は売った方がよいのか?これまでは殆ど無かった心配の声が広がりはじめている。
 こうした中、9月28日閣議決定された2022年度第二次補正予算では、岸田内閣の当初案に対し自民党が”恫喝“。僅か数時間の協議で3兆円の上乗せが決まったという。財源の多くは国債増発だ。又、議論が始まった防衛費倍増の財源についても国債でという無責任な主張が罷り通る。
 世界でも稀な短期政権だったとされるイギリスのトラス政権。その財源なき政策の数々の実現性を疑う金融市場からの批判にあって、イギリス国債、と通貨ポンドの暴落に見舞われ、トラス氏の辞任となった。イギリスは未だ、正常に機能していると世界は思った。日本は大丈夫か?円は大丈夫か?
陸井 叡(叡ffice)

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