アラビア語翻訳事はじめ②アラビア語の翻訳

○アラビア語のみならず翻訳会社にとって翻訳者は宝であり、会社の財産でもある。つまり、如何に良質の翻訳者を獲得するかにかかっている。良き翻訳者とは人間性は勿論だが、何よりもその扱う商品に対する幅広い商品知識が問われる。正則アラビア語と呼ばれる格調高い標準語的なアラビア語はある。しかし、商品に添付する取扱説明書では、極言すればその地方の方言がベストであろう。IBM は当時自社のアラブ向け製品にサウジ・クエート等の湾岸向け、イラク・シリア向けとマグレブ(モロッコ方面)向けに3種類の地域性を配慮したアラビア語で取扱説明書を用意したそうである。
○ロガータとしては最終的には電算写植を目標にしていたが、アラブやヨーロッパの事情は全く、雲をつかむようであったし、まだまだ、ヨーロッパ製の優れた電算写植機など買える経済的なゆとりもなかった。ペルシャ語文字パターンの入手に成功し、母型を製作、また、後に優れた鋳造技術を持った鋳造職人に巡り会えたお陰で、兎に角アラビア語印刷のスタートが切れたことになる。
○アラビア語翻訳が専門とはいえ、当然イランもオイルショック時には翻訳需要はあったが、量的にはアラビア語の比ではなかった。イランの言葉、つまりペルシャ語は主にイラン、アフガニスタンで使われ、日本の外務省はアフガニスタンのペルシャ語を正式のペルシャ語として認定していたようだが、イラン人に言わせると「アフガニスタンのペルシャ語(ダリー語)は田舎臭い」、それだけアフガニスタンのペルシャ語が古典的ということだったのだろう。当時日本外務省のペルシャ語講師もイラン人ではなく、アフガニスタン人であった。
○ある中東の非産油国のアラブ人ビジネスマンの話で、初めて日本に赴任した時驚いたことがあったそうだ。JR 新橋駅の出札窓口で切符を買うべく、並んでいたら、前の人が「ちゃりん」と小銭を落としたそうだ。すると、そばにいた子供が素早く拾い「ハイ、落ちました」といって差し出したそうである。「自国では考えられない。多分、拾ったら、さっと走り去ってしまうだろう」とのことであった。国民性というか、わが福沢先生の著書である1867年(慶応3年)に出版された、『西洋旅案内(上巻)』中のロンドンまでの船旅案内中でも「印度海飛脚船立寄る場所」として 「上海・香港・サイゴン……スエズ……パリス……ロンドン」のスエズの項で、『人気ハ甚だよろしからず旅人通行のとき用心すべし』と警告されている。現在もこの気性は変わらないのだろうか?

○1974年当時、まだ国内にはアラビア語の印刷が出来るところは皆無といってもよかった。正確には1軒だけあった。既にそこは写植印刷であった。客筋はどうしても2軒目、3軒目のアラビア語専門業者を必要としたし、輸出品に取扱説明書は必要不可欠である。また、取扱説明書の製作では必ずと言ってよい程、印刷直前に設計変更が入る。従って、商談開始と同時にマニュアルを作り始める。さもないと納期に間に合わない商談が不成立となればで、当然製作中のマニュアルも製作中止になりはしたものの、結構良い商売にはなった。

○客筋も予想の範囲内か支払いにクレームを付けたことは一切無かった。オイルショックを背景としたアラブ諸国に食い込むため、アラビア語版下製作までの発注先が殆ど無かった国内では、こちらの請求書に対する値引き要求は全くなかった。かなり長期間に亘り殆ど無競争の時代が続いた。

○他の翻訳会社B社から回ってきたアラビア語翻訳のチェック依頼で、調べてみるとロガータがA社へ納入したアラビア語翻訳であったりし、社内の翻訳者が自身の翻訳を自身でチェックする等ということもままあった。それほど翻訳者もいなかったし、業界には翻訳の質をチェック出来る体制も無かった。受注したアラビア語の翻訳や版下製作の価格は大体客先よりこちらが優位に立てたといっても過言ではなかった。この時代にロガータの基礎が築かれた。実に良き時代であった。

○ある時、某大新聞の発行する週刊誌でカット扱いのアラビア文字が逆さまにひっくり返った状態でデカデカと印刷されたことがあった。それだけアラブとの縁が薄かったということだ。一方ロンドン市内ではアラビア語の日刊紙など街中のスタンドで常時数紙は見かけた程の普及ぶりで、ヨーロッパとアラブは我が国とは比較にならない程身近な存在だった。航空機で数時間、歴史的な植民地支配という政治・経済的支配に限らずアラビア文字を通してのアラブ文化もまた欧米の文化的支配のもとにあったのである。固有の美しく素晴らしいスタイルを持つ文字フォントですら、アラブ諸国では殆ど全てヨーロッパのメーカーによって支配・独占されている。

 

(堀口 睦年 株式会社ロガータ会長 1954年卒)

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