書評「ロッキード」(真山仁著、文藝春秋社刊) ~初代、田中総理番記者の呟き~

 今からほぼ四半世紀前の1972年8月の軽井沢。当時、東京でよく知られたすき焼き店の出店。広い座敷に田中角栄総理(当時)が姿を見せた。真っ黒にゴルフ焼けした顔、ブルーのスポーツシャツ。待ち受けていたのは大手新聞社などの総理番記者たちだった。田中氏は、ほぼ1ヶ月前、7月7日に総理大臣に就任したばかりだった。首相の一挙手、一投足を追う記者達も、初代総理番としてスタートしたばかりだった。

  だが、記者団を前に、新首相は驚きの行動を見せる。座敷に入るや否や、中居たちに封筒に入ったチップを手際よく渡すと、座敷の襖を全て閉めるように命じた。首相と秘書官、それに記者団。あとは料理を運ぶ中居達が時折り出入りする場となった。

  実は、これより数日前の8月19日、ニクソンアメリカ大統領(当時)の補佐官、ヘンリー・キッシンジャー氏がヘリコプターで軽井沢を訪問、新首相と万平ホテルで会談していた。 

  キッシンジャー氏の狙いは、ほぼ10日後、8月31日に迫った日米首脳ハワイ・ホノルル会談のお膳立てだった。最大のテーマは日本の輸出攻勢で膨らんだアメリカの貿易赤字の削減策だった。そして、その後のホノルル会談で日本は濃縮ウランなどと並んで、アメリカの民間航空機を輸入する事が合意された。

   さて、真山仁「ロッキード」は、その民間航空機、具体的にはロッキード社のトライスター機を全日空に売り込む工作、ロッキード社の代理店「丸紅」による贈賄工作、そして田中首相の収賄を「首相の犯罪」として作り上げた東京地検特捜部の物語が中核となっている。検察は、軽井沢、ホノルルでの二つの会談こそが事件の発火点という構想のもとで、捜査、立件、そして公判へと進む。

   真山仁氏は、事件をジャーナリストというより、むしろ作家の目で分析してゆく。「ロッキード」は、元々週刊文春に2016年から連載されたものを、今回、集大成している。広く資料を集め、整理分析、当時の三木首相が、既に総理を辞任しているライバル、田中角栄氏を追い詰める政治状況などを含めて分かり易く追って行く。確かに大作である。

   そして、真山仁氏の作家としての“ロッキード観“が如実に示されたのが「ロッキード」冒頭の序章にある元最高裁判事、薗部逸夫インタビューだろう。インタビューは2018年10月に行われた。

   「ロッキードはフワフワと現れて、フワフワと消え去った事件でした」薗部氏が判事の一人として担当した最高裁判決は1995年2月22日。田中角栄氏は既に死去しており、公訴棄却だった。

   薗部インタビューの詳細は、更に、「ロッキード」254頁から始まる。「(最高裁近くの)英国大使館を通るたびに思ったんですよ。こんな場所で本当に車から車に現金を移しかえるなんてことを白昼堂々とおこなえたんだろうか、と」「あの場所を歩く度に、ロッキード事件とは何だったのかと思わずにいられません」

   又、「(ロッキード社の社長に対しアメリカで日本の検察が行った尋問、嘱託尋問は)日本の法律にないやり方で得た調書を証拠として採用することには問題があります」と述べただけでなく「(もし)最高裁の法廷に、田中さんが出廷して、自らの潔白を主張したら、裁判は別の様相を呈したかも知れません」とも述べている。

   東京地検特捜部が作った嘱託尋問調書は、結局、最高裁で証拠として採用されなかった。又、現金受け渡しについても関係者は公判で否認、物的証拠は殆ど無い。更に、民間航空会社が自社で使用する旅客機の選定にまで一国の総理大臣が職務権限を持つと言う検察の説明にも明らかに無理があった。だが、田中角栄氏は一、ニ審の有罪判決を背負って旅立った。ロッキード事件とは、検察と判事、そして当時の三木政権が作り上げた虚構だったようにも見えて来る。ロッキード事件とは何だったのか? 

陸井叡(叡office.)

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