小池百合子」という政治家は責任のとり方を知らない

今回の衆院総選挙は、新党「希望の党」代表に名乗りを上げた東京都知事の小池百合子氏が、台風の目になると思われた。しかし、選挙戦序盤からその台風の勢いは衰え、あっという間に温帯低気圧に変わってしまった。
なぜ小池氏の勢いが衰えたのか。巷では「排除の論理」で民進党の革新派を追い出したことが原因だとみられているが、私はそうは思わない。
希望の党の立ち上げで活躍した若狭勝氏や細野豪志氏を「リセット」という一言で黙らせ、党代表に就いた以上、小池氏には出馬する責任があった。
つまらない打算など抜きに都知事を辞して堂々と衆院選挙に立候補し、選挙を戦い抜く覚悟を世の中に示すべきだった。
大衆の期待に反し、衆院選に出馬しなかったことが、小池氏の大きな敗因である。大衆にとって台風の消えた選挙など面白くも可笑しくもないからだ。
天も怒ったのだろう。10月22日の投開票日には超大型の本物の台風が日本列島を襲った。その結果、投票率が悪くなり、野党に入るかもしれない浮動票が動かなかった。
ここで小池氏の動きを中心に選挙戦を振り返ってみよう。
9月25日、安倍晋三首相が衆院解散を表明した。野党第1党民進党のゴタゴタの内部事情に加え、小池新党の進まない設立準備状況を見て「いまこそ、解散が得策だ」と判断したからだ。
都議選で小池氏の「都民ファーストの会」の前に自民党が大敗したことも大きい。28日召集の臨時国会冒頭で解散してしまえば、「森友・加計」疑惑の追及を受けなくて済み、与党の勢力を挽回できるとも考えたのだろう。
しかし、小池氏の方が一枚ばかり上手だった。この解散表明と同じ日の25日、小池氏は都庁で緊急の記者会見を開き、新党の「希望の党」を立ち上げ、自ら代表に就任することを宣言した。
それまで「都政に専念する」と国政に距離を置いているとみられていただけに大きなサプライズとなり、大衆は小池氏の勘と度胸に酔った。見事に「小池劇場」は成功した。
日本新党から自民党までいくつもの政党を手練手管で渡り歩き、細川護熙(もりひろ)、小沢一郎、小泉純一郎というときの権力の中枢に自らを置いて成功してきた女性政治家だけはある。
しかし、今回の衆院選は失敗した。その理由が排除の論理にあるという見方はどうだろうか。
確かに小池氏に追い出されて立憲民主党を立ち上げた枝野幸男氏の人気が上昇し、立憲民主党は成果を上げた。立憲民主党の立ち上げ前後から小池人気に陰りが出てきたことは間違いない。
衆院選が公示される前の10月3日付の毎日新聞(東京本社発行)紙上で細川氏が「同志として小池氏を手助けしたいと考えてきたが、排除の論理を振り回し、戸惑っている。公認するのに踏み絵を踏ませるというのはなんともこざかしいやり方で『寛容な保守』の看板が泣く」と批判したことも、排除の論理が敗因という見方を裏付けるかもしれない。
しかし、小池氏が革新派を排除したからこそ、立憲民主党が生まれたのである。民進党やその前身の民主党は、保守派と革新派が同居して基盤が不安定だった。
保守派と革新派の寄り合い所帯との批判は民主党のころからあった。勢力を拡大して一時、政権交代を果たしたが、その一方で内紛も繰り返した。希望の党が候補者を選別したのは、新党の基盤を固めるためにはやむを得なかった。
有権者にとっても良かったと思う。なぜなら衆院選自体が政党を選ぶ選挙であることを考えれば、排除の論理のおかげで今回の衆院選は「自民・公明」「希望・維新」「立憲民主・共産・社民」の分かりやすい3極の争いの構図になったからである。
小池氏には「排除」という強い言葉を使わずに希望の党を安定化させていく方法もあった。選別するのは「安倍1強」を倒し、第一党となった後でも良かった。時期尚早の排除だったのである。
それにしても新聞各紙の社説は、小池新党の立ち上げのときから「中身が薄い」と批判的だった。その後、週刊誌も「小池『緑のたぬき』の化けの皮を剥ぐ」(週刊文春、10月19日号)、「傾国の『小池百合子』」(週刊新潮、同)と選挙妨害をこちらが心配してしまうほど過激な見出しを付けて小池氏を攻撃した。
小池百合子という政治家はどうしてここまで批判され、攻撃されるのだろうか。
都知事選、都議選と立て続けに大衆を小池旋風に巻き込み、衆院選では「出馬するだろう」と小池劇場の第二幕を期待させながらその期待を大きく裏切ったからだ。  勝算抜きに都知事を辞して出馬する。これが世間を騒がせた責任のとり方だったのではないだろうか。
木村良一(ジャーナリスト)

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