「 絶歌」出版の問題を考える

 神戸連続児童殺傷事件の犯行当事者である「元少年A」の手記『絶歌』が出版されて、ひと月弱。やや落ち着いてきたとはいえ、この手記の出版に対する反応の際だったところは、その内容や記述への論評もさることながら、出版そのものを問題視し、槍玉に挙げているいる意見や主張が大勢を占めているとことであろう。
 テレビ番組のキャスターやコメンテーターは言うに及ばず、普段は社会問題にコミットしているとは思えない芸人やタレントまで「この出版を許してはならない」といった、激しいバッシングの嵐。雑誌でも同様な論調が多く、ネットにおいてはそれに輪をかけた罵詈雑言といった事態である。  いささか、異様ともいえるこうしたファナティックな反応は、どういった理由から生じたことなのだろうか。
 というのも、いままで凶悪事件を犯した人間が手記や作品を発表し、話題となった例はいくらでもある。思いつくまま著書をあげてみよう。1968〜69年、未成年で連続ピストル射殺事件を起こし死刑判決を受けた永山則夫の『無知の涙』(1971)、あさま山荘事件の主犯格の二人である永田洋子と坂口弘(ともに死刑判決)が著した『十六の墓標 上・下』(1982・83)『あさま山荘1972 上・下』(1993)、1981年、パリ人肉事件を起こした佐川一政の『霧の中』(1984)、1993年に発生した埼玉愛犬家連続殺人事件の共犯者が出所してから出版した『愛犬家連続殺人』(2000)、福岡県大牟田市4人殺人事件の実行犯の一人の手記をもとに描いた『我が一家全員死刑』(2010)、最近でも英国人女性殺害犯・市橋達也の逃亡中の模様を記録した『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』(2013)などがある。

 すくなくとも、これらの書籍の出版に際して、出版それ自体が、世の中の大多数の意見としてあからさまに否定されたことはないはずだ。
 おそらく、今回の〈様相〉を引き起こすきっかけとなったのは、一つには、事件の被害者である土師淳君の父親が、版元である太田出版への出版中止を求める声明を発表したことであることは、間違いないだろう。
 その意味するところは、「被害者遺族の感情を無視」した手記の出版は、当人のかつての犯罪同様に無慈悲かつ残忍な——被害者を二度殺害したにも等しい——行為なのだ、ということだ。
 そして、もう一つの論点。凶悪事件の犯行当事者が、そのみずから犯した事件を〈ネタ〉に印税などの利益を得るのは不当ではなかろうか、といった疑問である。
 まず、第一の論点であるが、私は被害者の心情を理解しつつも、それでもなお、表現と出版の自由が優先されるべきだと考える。誤解を恐れずにいえば、どんなに注意し配慮しようとも、本を出すという行為は意図せずとも、誰かを傷つけたり不快にさせたりすることが起こりうる。そのことを、終始念頭に置きつつ出版社は出版という行為に赴き、継続していく責任と義務がある、ということだ。
 重要なのは、出版社にとって〈刊行したいと思う〉本(または雑誌)を検閲などの規制を受けずに出版する自由が保証されており、同時に、意に沿わない表現や出版が強制されない、ということでもある。
 
〈刊行したいと思う〉動機になるのは、〈売れる=儲かる〉ことであったり〈世に問う意義がある〉ことであったりする。さらに付言すれば、この二つの要素は等価である。両者が備わっていれば申し分ないが、双方の価値に優劣はない、と私は考えている。それを前提として、出版という〈業〉が成立しているのである。 『絶歌』の出版をめぐる論議の分かりにくさは、その内容の社会的意義や価値(=作品論)を端緒として、出版そのものの是非を論ずることに、何ら疑問を抱かないナーブな意見が多いことでもある。
 社会にとって価値があろうとなかろうと(誰が判断するのかはともかく)、どんなにくだらない内容であろうとも、嘘八百を並べ立てた中身であろうとも、表現する、出版する自由は保証されなくてはならない。そして、それを受け入れた社会は、それを如何様にも批判する自由が担保されてもいる。当然のことながら、著者と版元はその批判に対する責めを負わなくてはならない。この点、今回の『絶歌』が著者名を〈元少年A〉と匿名にしていることは、責任を果たしたとはいえず問題であるといえよう。

 つぎに、第二の論点である不当な利益について。〈元少年A〉が『絶歌』によって得た印税の使途については明らかにされてはいないが、一部週刊誌の報道によると(「週刊文春」6月25日号)最初に原稿を持ち込んだ出版社からの借金(400万円相当)などもあり、彼の生活困窮ぶりは想像に難くない。おそらく、本書の印税が全額かどうかはともかく、彼の収入になるのは間違いない。
 初版と増刷分を合わせて15万部。通常で考えれば2000万円近い印税が支払われることになる。犯罪被害者の遺族のみならず市民感情としても納得できない理不尽な思いにかられるのは当然かも知れない。米国で施行されている「サムの息子法」のように、凶悪犯罪当事者が出版などによって受ける収益を差し押さえるなりの法的規制については、今後議論を進めていくべきであろう。
 元少年Aが述べているように、みずからの存在証明を突き詰めた結果として書かずにはおれない、という表現欲求があったとすれば、今の時代、ネットで発表という手立てもあったかもしれない。それを、あえて商業出版という手段に訴えたことで、身勝手な自己顕示欲と利益のため、と受け取られても仕方のないことだ。

 最後に、本稿では、あえて『絶歌』の中身につていの言及は避けることにした。それは、本論の目的ではないからだ。昨今流行のダイバーシティの概念を持ち出すべくもなく、多種多様の言論の現出とそれを尊重する世の中こそ、成熟したデモクラティックな社会の証である。テレビやネットをはじめとした、一見社会の多数派の〈雰囲気〉に対し敏感に反応する〈自主規制〉といった行為こそ、表現・出版活動に携わる者として厳に戒めるべきであろう。戦前の新聞法や出版法は、遠い昔の話ではないかもしれないのだから。

佐久間憲一
牧野出版代表

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