「表現の自由」を考える ~慶應義塾大学綱町三田会ミニゼミから~

3月4日、2014年度最後のミニゼミが慶應義塾大学三田キャンパスで開かれた。今回のテーマは「表現の自由」、ジャーナリズムに携わる者にとっては永遠の課題だが、特に1月7日に発生したフランス紙襲撃テロ事件をきっかけに、日本でも議論の盛り上がりを見せている。国ごとの文化的差異に伴って生じる言論・表現活動に対する価値観の多様性を念頭に置きながら、それでも普遍的に存在する「表現の自由」をめぐって、研究所の担当教授と現役学生が、研究所卒業生である5名のジャーナリストと共に熱い議論を交わした。

冒頭、まずはシャルリー・エブド社による、ムハンマドを揶揄したとされる風刺画の掲載の是非が議題として持ち上がった。記者・学生の双方からやりすぎだったのではないかとの声が出たが、同時に記者側は、これを日本人の常識や価値観を以て議論することの難しさを指摘した。フランスには、革命に根ざした独自の自由の精神が受け継がれており、日本の価値観とは大きく異なる。たとえば、フランスにおける表現の自由について、18世紀末の革命はカトリック教会と一体化した王政への不満が引き金であったため、現在も神を冒涜することへの罪悪感が薄いという見方がある。これに限らず、フランス独自の様々な文化への考慮なくして今回の事件を語ることは、ほぼ不可能なのだ。この指摘により、出席者は日本とフランスの文化の違いを議論の前提として置くことの重要性を共有した。

これに関連し、続いて学生側から「表現の自由をどこまで許し、どこで線引きをするべきか」という質問が投げかけられたが、これに対し、記者側は明確な物差しとしてまず法律を挙げた。例えば、ホロコーストへの反省に基づいたフランスの「ゲソー法」(Loi Gayssot)、この法律は人種差別的・反ユダヤ的言動を明確に禁止している。一方で、問題の風刺画のようなイスラム教徒への差別的ともとられかねない表現を禁止した法律は存在しないため、社の言論活動を咎めることは出来ないとの指摘があった。伝統的な法治主義国家であるフランスにおいて、法律で禁じられていない表現に自ら規制をかけよう、という考えは働きにくいのだ。他に挙げられたのは、各メディアで設けられている放送コードやガイドライン。この内容は、各メディアの視聴者数や発行部数などのスケールと、それに応じた社会への影響力に少なからず左右され、スケールが大きいほど規制は厳しくなる。人権の保護あるいは受け手の感情への考慮といった観点から、規制を設けなければならない現状がある一方で、これに関しある記者は、特定の立場に対する差別的表現をコードによって禁止することが、差別的概念そのものを固定化することにつながりかねないのではないかとの懸念を示した。

また、今回の問題が政治利用されているのではないか、という全く異なった切り口からの議論も行われた。記者と教授側によれば、表現の自由の名のもとに市民が一丸となった今回の事件は、政治家たちにとって、移民問題などで割れるフランス国内、更にはギリシャの経済危機などでまとまりを失ったEUの亀裂を修復させる格好の機会であったと見ることも可能だという。国や文化によって「表現の自由」が表象する意味が異なるという事実が忘れられ、ただ尊重されるべき概念であるという認識だけが世界で共有されている。教授側は、絶対視され、その内実が問われることの少なかったこの概念が、今回のように政治利用されることの危険性を指摘した。

古くから、守られるべきものとして尊重されてきた「表現の自由」は、いまや多様化した社会の中で、それぞれの場所で異なった形で根を下ろしている。今回のディスカッションでは、その違いを理由に新たな衝突が生じ得ること、その曖昧さゆえに都合よく意味を変えられ利用されかねないことなどが明らかになり、この言葉の持つ意味の幅広さと深さを改めて実感させられた。
シャルリー・エブド社襲撃に端を発する一連の事件は、これまで絶対的なものとして疑われることのなかった「表現の自由」、そのあり方に一石を投じた出来事であったと言えるだろう。ジャーナリストは、この永遠の課題と向き合うことを放棄してはならない。次回ミニゼミは5月20日(金)を予定している。

土屋香乃子
慶應義塾大学法学部政治学科3年 

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