帰省も部活動もできない「いつもと違う夏」が終わろうとしている。サッカー部の寮で集団感染が起きた島根県の私立高校には誹謗中傷が相次ぎ、同校サイトから写真を無断転載したまとめサイト13件について県が8月21日、「人権侵害のおそれがある」と松江地方法務局に通報するに至った。他県ナンバーの自動車に対する嫌がらせも各地で報告されている。こうした状況下で新学期を迎えるにあたり文部科学省は25日、児童生徒、教職員、保護者や地域の人にそれぞれあてたメッセージ「新型コロナウイルス感染症に関する差別・偏見の防止に向けて」を萩生田光一文相名で発出した。なぜこのような差別や偏見が起こるのか。「情報」という側面から考える。
●インフォデミックの諸相
新型コロナウイルス感染拡大と過去の感染症との違いの一つとして、不確かな情報が恐怖や憶測とともに拡散する「インフォデミック」が問題となっている。「インフォデミック」とは、information(情報)とepidemic(伝染、流行)を組み合わせた造語で、今年2月2日にWHOが世界に警戒を呼び掛けた。日本では、関西大学の近藤誠司准教授(災害情報論)が6月に論文「COVID-19 インフォデミックの諸相」を公開し、①真偽の未確定性・不定性、②分断と連帯、③可視化と不可視化の3つの位相によってその功罪を示している。具体的には、感染の発端が中国・武漢であることを強調する不確実情報や「中国人がマスクを買い占めている」といった差別的な感情のもとで発せられるデマや、感染者への攻撃や他県在住者の排除や「自粛警察」といった独善的な排除、ウイルス関連の情報が溢れる一方で他の社会的課題が見えづらくなることなど、恐怖や不安、憎悪の感情がさまざまな災いを引き起こすことを指摘している。
こうした現象は欧米でも起こった。トランプ米大統領が「中国ウイルス」と中国への反感を煽る発信をtwitterで行ったり、イタリアの州知事が中国人を揶揄する発言をしたりするなど、各地でアジア人差別が拡大した。5月8日にはグテーレス国連事務総長が「パンデミックによって、憎悪と外国人嫌悪、スケープゴート探しと恐怖の扇動が大規模に引き起こされ続けている」と、各国政府に「憎悪のウイルスに対する社会の免疫力強化のための速やかな行動」を求めている。
●狭まる排除対象
こうした差別や排除はなぜ起こるのか。大阪大学大学院・三浦麻子研究室(社会心理学)では、1月末から7回、日本国籍をもつ約1000人を対象として、「感染を避けたい」気持ちと「排斥」の関係について継続的な調査を行っている。感染のリスクが高い場面でどんな行動をとるかを尋ねると同時に、外国人が日本で働いたり観光したりすることについて、どの程度「受け入れたい」と思っているかなどについて尋ね、統計的に分析したところ、「感染を避けたい」という考えが強い人は、外国人に対する排斥的な感情も強いという傾向が見られた。一方、感染リスク拡大につれて外国人への排斥的態度が強まる傾向があるのではないかという仮説については、外国人を排除する感情は1月末の時点ですでに相当高く、感染拡大につれてさらに上昇するという傾向は見られなかった(山縣・寺口、三浦「新型コロナウイルス感染症禍における感染忌避傾向と外国人への排斥的態度の関連:日本を事例とするパネル調査研究」関西社会心理学研究会4月25日発表)。三浦教授は「新型コロナウイルスは当初、外来のものと感じられていたが、日本国内での感染が広まるにつれ『他府県ナンバーの車が来た』というように、『よそ者』の範囲が狭くなり、『自分が住んでいる以外のコミュニティーの人に来てもらったら困る』というトーンに変わっていった。感染を避けたい感情の強い人は、東京や大阪のような都心部より、感染者が少ない地域の方が多いという調査結果もある」と指摘する(朝日新聞globe 7月12日)。
●情報ニーズの高さ×曖昧さ
三浦教授らの研究は「行動免疫システム」仮説に基づくもので、人間本来の仕組みとして感染リスクのあるものや人、状況を避けようとする心理的システムがあり、それが「誤作動」すると、差別や偏見につながると説明している。ではなぜ「誤作動」が起こるのか。背景として「インフォデミック」による不確かな情報の急速な広がりが考えられる。
流言拡大について東京女子大学の橋元良明教授は、「R(流言の流布量)は、I(内容の重要性:Importance または関心の高さ:Interest)とA(内容の曖昧さ:Ambiguity)の積に比例する」というオルポートとポストマンによる公式を引用し、情報のニーズが高い一方で、情報が曖昧だったり、錯綜したりするのは、災害時など世情が混乱している場面に多くみられると解説する。そのような場合、社会的緊張が増し一種の集合的興奮状態が醸成されるため、心理的にもデマ・うわさが流れやすくなる。橋元教授は、かつては情報ニーズに比べて情報供給が不足することによりデマ・うわさが流れやすい状況が生まれたのに対し、現代のネット社会では、情報が錯綜し大量の情報が瞬時に拡散されることにより、人々が情報に惑わされ、不安をかき立てられてデマ・うわさが跋扈する特徴があり、SNSによるメッセージの曖昧さも情報の歪みを助長していると指摘する(朝日新聞社『Journalism』6月号)。
●「情報のワクチン」
一般に差別や排除行動を解消するには、背景にある不安を取り除くことが必要だと言われる。安倍政権は「国民全員分のワクチン確保」を対策の前面に打ち出した。文科省のメッセージも、研究の進展による予防と治療の可能性を説き、それまでの間「思いやりの気持ち」をもって行動することを呼び掛けている。しかし、過剰な防御反応がインフォデミック=不確かな情報が瞬時かつ大量に流通することによって助長されていのであるならば、徹底した情報公開による情報の曖昧性回避、すなわち「情報のワクチン」(近藤准教授)こそが、今求められているのではないか。
新型コロナウイルスは、スペイン風邪(1918年~20年)としばしば重ねて語られる。第一次大戦とともに感染症が拡大し3000万人以上が命を落とした。戦後の不況が経済のブロック化を招き、第二次世界大戦につながったという考え方だ。日本では1920年に戦後恐慌、1923年に関東大震災が起こった。震災後に流言がもたらした惨事については語るまでもない。現在もかつてない経済状況悪化が危惧されている。社会の不安定性が増すなかで100年前の愚を繰り返さないためにも、今改めて情報との付き合い方を考える必要がある。
中島みゆき(新聞記者・東京大学学際情報学府博士後期課程)