コロナが加速させるニュースメディア革命-新聞は終わったのか-

 十数年の間、部数低落にあえぐ新聞は、降ってわいたコロナ禍によって深刻な影響を受けている。広告減によりページは薄くなり、販売店のチラシも激減している。

 歴史を振り返ると、明治初期に活版印刷の近代的な日刊新聞がはじめて登場した。その後明治中期までは、大(おお)新聞(しんぶん)(欧米風に言えば高級紙)と小(こ)新聞(しんぶん)(同大衆紙)に明確に分かれて次々に新聞が生まれた。ところが、明治後半になると、両者を折衷した“抱き合わせ”型の新聞が成長するようになった。大新聞として出発した毎日、小新聞として始まった朝日が二大紙として他を引き離すようになったのである。戦後読売がそれらに並び、やがて追い越していく。

 この折衷抱き合わせ型による、世界に冠たる新聞王国の実現という“できすぎた大成功”こそが、皮肉なことに今日の苦境のもとになっている。すなわち、インターネット、特に2008年のスマートフォン(スマホ)の登場以後、抱き合わせのうちの小新聞相当の部分が無料で読めるネットメディアに流出し、大新聞部分を特に必要としない大多数の読者にとっては、高い宅配新聞を取る意味がなくなってしまったのである。

 そのような構造変化をもたらした要因はデジタルでありメディアの個人化である。デジタル化は従来のサービスの機能を分解して、新たなサービスの登場を促す。アナログレコードが、デジタルにより、CDに変わり、さらにストリーミングサービスを生み出した。新聞も音楽業界などと同様の波に洗われている。

 デジタル化により新聞は分解され、紙が唯一のアウトプットではなくなり、今では個々の記事単位で、Yahoo!ニュースやスマートニュースなどのネットメディアに安値でバラ売りされるようになった。それらは、個々人が持つスマホを通じて無料で読める。そのときに、スマホで読まれている記事の大半は、「小新聞」に相当する速報的なストレートニュースや興味をひきやすい軽い話題である。

かつては、記事を割り付けた「紙面」が新聞社のアウトプットの中心だった。それを個人ではなく世帯(家庭)に販売店を通じて届けていた。すなわち折衷抱き合わせ新聞は、家庭内共同利用メディアとしての役割を担っていた。「一家に一紙」は一般的な慣習となった。しかし、実は、読者の新聞離れはインターネット登場以前からかなり進んでいたことがNHKの生活時間調査などによって明らかになっている。その上、スマホの登場によって「小新聞」的な範疇のニュースが無料でチェックできることになったので、高価な共同利用メディアは不要になってしまったのである。

 一方、折衷抱き合わせ新聞のうちの「大新聞」相当の深掘り記事や解説・論説などを好む読者はやはり数が限られている。こうして、世帯メディアである新聞の部数が減るのは必然だということになる。

 以上からわかるように、2000年代初頭まで続いた巨大部数というのは、いわばバブルだったのであり、部数減の続く今はある意味で正常化の道を歩んでいるとも言える。つまり、現在の部数減は、“成功しすぎた”新聞社にとって経営的には大問題だが、新聞というメディアの死を意味するわけではない。

 コロナが加速させるニュースメディア革命で守るべきことは何か。それは、確かな問題意識に基づく深い取材によって実現するジャーナリズムである。たとえば、新聞協会賞を受賞した秋田魁新報の「イージス・アショア配備問題を巡る報道」や毎日新聞の「旧優生保護法を問うキャンペーン報道」はその一例である。このような手間暇かかる報道は、経済的裏付けがなければ手掛けられるものではない。その役割をになってきた新聞社がもし立ちゆかなくなると、同様の役割を果たしていけるのはNHKだけだということになりかねない。事件事故のストレートニュース中心のメディアと、取材をしないオピニオンメディアばかりが生き残るようでは困る。

 そのためには、新聞社が、ネットメディアの下請けに甘んじるのでなく、サブスクリプション収入を確保することである。折衷抱き合わせ新聞の夢の再来はあきらめて、部数は従来より1ケタ下でもいいではないか。これまでは、販売店経由の紙の販売を少しでも温存したいためにデジタル第一の路線に舵を切れなかったが、コロナの砲弾が直撃したことを機に思いきった変身を遂げる条件が整った。

 その際、日経電子版やNewsPicksが有料サブスクリプションモデルで離陸しつつあることから、経済紙は成り立っても一般紙は困難だという論が根強くある。それは、読者にとってお金を出してでも読みたい「必要な情報」が一般紙にあるのかという問いでもある。しかし、先に例にあげた協会賞受賞の報道のように、地味で粘り強い現場取材に力を入れるような、信頼できるメディアを購読者として期待し応援しようという人は少なからずいるはずである。コンテンツ(記事)を売る発想ではなく、ジャーナリズム応援団を組織する、あるいは顔の見える記者や編集者のファンクラブをつくる発想を求めたい。

 そもそもかつての「一家に一紙」の時代、新聞はコンテンツを評価してとられていたのだろうか?メディア論に造詣の深い服部桂さんがあるシンポジウムで「新聞が販売店を通じて多くの家庭に届けてきたのは“安心”である」と語っていた。「コンテンツ価値を合理的に評価する消費者」という経済学の前提のような考え方では説明できないということを示唆している。

 サブスクというのは結婚みたいなものだと思う。恋愛でも見合いでも、いっしょに長年暮らしてみて、だんだん相手の価値がわかってくる。あるいはお互いに影響されながら価値がつくられていく。新聞も、最初は鍋釜や洗剤につられてとったとしても、毎日ページをめくってつきあっているうちに良さがわかってくる。そして、そういう読者との関係をつむいでいくうちに価値が磨かれていく。デジタルの時代においても、新聞とはそういう特性を持ったメディアなのではないか。

校條(めんじょう)諭(メディア研究者)

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