アムステルダム便り(最終回) 東京を歩きアムステルダムを想う

慶應義塾大学から昨年8月より1年間、オランダ・アムステルダム大学へ交換留学で派遣されていました。

 オランダ人にとっては「当たり前」の国民文化に疑問を投げかけ、その背景を探っていきたいと思います。

 

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 留学を終え、帰国してから早くも4カ月が経った。思えばアムステルダムではどこへ出かけるにしても自転車を使っていたから、それ自体が運動になった上、スマートフォンを眺める時間も必然的に減った。

 その生活から離れ、そろそろ脚力の低下が心配になってきた。ふと思い立ち、最近は休日を利用して密かに都内をランニングしている。中でも2020年東京五輪のマラソンコースにも選ばれている日本橋はお気に入りだ。

 日本橋を走っていると「ランナーズ・ハイ」を感じる瞬間がある。その理由は、道幅が広く走りやすいからだけではない。ここが日本中の道路の起点であることを思うと、心の中でまた新しいスタートが切れそうな気がするからだ。

 そもそも、日本橋が五街道の起点とされたのは、江戸時代の幕開けとともに徳川家康が江戸の本格的な都市計画に着手した「天下普請」がきっかけだ。そしてこの都市計画に大きな影響を与えたのが、当時のアムステルダムの街づくりだった。

 当時と言っても、その景観は今もほとんど変わらない。網の目状に張り巡らさられた運河に沿って、間口が狭く奥行きがある建物が隙間なく並ぶ。

 春の晴れた午前中、アムステルダム市中心部では最も高い建物(86メートル)であるWesterkerk(西教会)の塔に登った。かのアンネ・フランクの隠れ家は真横にあり、教会は『アンネの日記』でも言及されている。

 塔から眼下を眺めやり、地図から想像するよりも整然と区画整備された街並みに思わずため息が漏れた。オランダ自体が「Nederlandネーデルラント(低地)」と呼ばれていただけあって、アムステルダムの平均海抜は2メートル、標高差はゼロに近い。平坦な土地に、運河、17世紀の邸宅、樹木が一定のパターンで並ぶが、見ていて飽きることがない。景観に統一性を持たせるため、建物の高さは中心部で平均15メートルと厳しく制限されているそうだ。

 江戸もかつて、アムステルダムをモデルとした都市を目指していた。17世紀初頭に命がけで日本を目指し、アムステルダムの街の様子を江戸に伝えたオランダ人の銅像が、中央通りと八重洲通りが交差する五輪マラソンコース上にある。この銅像の主こそ航海士ヤン・ヨーステンであり、「八重洲」の地名の由来になったことは都民にもあまり知られていない。

 ヤン・ヨーステンの協力により神田川が開削され、以降、江戸の交通輸送に欠かせない水路となった。

 日本橋は、関東大震災や東京大空襲でも損壊を免れた。にもかかわらず、「昭和の天下普請」とも言うべき1964年東京五輪に伴うインフラ整備で、その景観は日本人自身の手によって「破壊」されてしまった。東京は、アムステルダムのようにはなれなかった。

 陸路と水路、自転車と歩行者、伝統と最先端が共存するアムステルダムの都市設計は、今や世界中の街づくりのモデルとされている。しかし、昨年から英国の欧州連合(EU)離脱を前に企業本社や労働者が続々とアムステルダムへ移転を始め、住宅不足はいよいよ深刻だ。昨年の留学生と同数の学生を新たに受け入れるだけの余力がこの街に残っているとは到底思えない。

 歴史の継承か、破壊か。どちらの道を歩むのが得策か、今度はアムステルダムが東京に学ぶ時だ。

 とは言っても、日本橋全域が破壊の道を歩んだわけではない。三越前の中央通りを一筋東に入れば、「アムステルダム的」と言えなくもない、間口の狭い老舗の小料理屋が姿をとどめている。そういえば、日本橋川の流れもアムステルダムの運河を思わせるところがある。東京にいながら、こんなことを思わずにいられない。

 福沢諭吉とオランダがそうであったように、私とアムステルダムは切っても切り離せない関係になってしまった。

〈終わり〉

広瀬航太郎(慶應義塾大学法学部政治学科4年)

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