令和に改元という政治ショー ~何が変わるのか?~

 新元号に続く天皇の代替わりで日本列島は沸いている。令和を速報する新聞社の号外を奪い合い、テレビは特番を編成してどのチャンネルも元号だった。天皇の代替わりも、新時代の番組や記事で埋め尽くされるだろう。いくらお祭り騒ぎが好きな国民性だからといってもこの過熱ぶりは、いささか激しすぎるのではないか。
 元号が改まっても2019年は続くし、これを機会に何かいいことが起こるわけでもない。それはわれわれの努力次第である。時代の節目ならばなおのこと立ち止まって静かに、考えてみることが大事だろう。
 フィーバーぶりには国民性とともに、日本文化ファーストとでもいう様なエスノセントリズムと、日本の社会を覆う閉塞感があるように思える。安倍首相とともに菅官房長官もテレビ局を掛け持ちして、「日本固有の」、「歴史上はじめて国書、萬葉集を典拠とする元号」を強調した。識者も「出典をこれまで通り漢籍に限れば、使い古された印象を与えかねない」、「斬新さを出すためにも国書から選ぶのは妥当」と繰り返す。
 なぜそれほどまでに「初めての国書」、「日本固有の」を強調しなければならないのかである。ヒト、モノすべて国際化が進んでいる時代にそぐわない。
 令和の典拠である「初春の令月、気淑しく風和らぐ」は、中国の古典を踏まえていることは明らかになっている通りだ。その上なお「初めての国書」「日本固有の」を強調されると、これまで長い間、元号をはじめ中国文化を朝鮮半島などを通じて摂取し、日本化してきた歴史が、誇ることのできない恥ずかしいものだったように思えてくる。
 令和が決まった直後に発表された新一万円札の肖像画の渋沢栄一は、日本の近代経済の父と呼ばれ、生涯に600社近くの会社を起業した。今も企業家の必読の読と言われる渋沢の「論語と算盤」は、経営にも論語の指摘する道義が大事だと説いている。
 数年前、ギリシャの財政が破たんして欧州連合(EU)から離脱騒ぎが起きた。それ
でもEU各国には、ギリシャが生んだ民主政は普遍的な価値があるから皆で大事にして
行こうという共通の認識があったとされる。    
 京都御所で紫宸殿を見学すると、そこには中国の古い教え、道教の神が存在し、神が座る席は高御座(たかみくら)と呼ばれる。唐の時代には「天皇」と称する皇帝もいる。古事記、日本書紀に登場する三本足の八咫烏(やたがらす)は、熊野本宮大社の神紋や日本サッカー協会のマークとして有名だが、韓国には八咫烏のお祭りがあり、さらに中国の紀元前の石碑に三本足の八咫烏が描かれている。いつのころか大陸を発して朝鮮半島を経て日本に伝わったのだろう。国際化という時代にはそういう広がりにも思いをいたすことが大事だろう。
 歴史学者は、「新元号や新天皇の誕生に沸くだけでなく、「天皇」という言葉の意味や由来、歴史のなかで果たしてきた役割を考えてもいい」と言う。また第二次大戦の戦地の訪問は、加害の意識を忘れないようにとの気持からと思われるが、象徴天皇にだけにまかせておいてよいのかということもある。
 翻って現実の政治を見ると、労働人口の減少と高齢化は不安材料だ。人口減少に歯止めもかかっていない。待機児童問題も深刻で、令和の政治は子どもを産み育てやすい社会をどう築いていくのかも課題である。貧富の格差社会が広がり、他人に不寛容な雰囲気を生んでいるのも平成時代の特徴だ。
 政治が期待する若者からは、老後を安心して暮らせる年金は受け取れかと不安がる声が聞かれる。人口動態統計(2017年)によると、10~14歳の死因の1位は戦後初めて「自殺」だ。多くの若者が自ら命を絶つ社会は、決して美しい国とはいえないだろう。今後5年間に34万5千人の外国人労働者が来日する。その数はさらに増えるだろう。原子力発電所で働いてもらうというが、危険と隣り合わせだ。さまざまな分野で閉塞感を乗り切る努力が求められている。
 新天皇の即位と続く行事で、メディアをはじめ日本中がフィーバーに沸き立っている。平成が誕生したときは、政治が前面には出ることはなく控えめだった。ここにきて政治ショー化が一段と進んだように思える。おめでたいときにやぼったいことは言うなと叱られるかもしれないが、フィーバーぶりからは、政治の難題を表舞台から見えにくくする政治ショーという感じを受けるのだ。
栗原 猛(ジャーナリスト)

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