アムステルダム便り 行列をつくらないオランダ人

 慶應義塾大学から昨年8月より1年間、オランダ・アムステルダム大学へ交換留学で派遣されています。
 オランダ人にとっては「当たり前」の国民文化に疑問を投げかけ、その背景を探っていきたいと思います。

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 2019年の年明けはもちろん、アムステルダムで迎えた。オランダにいては、紅白歌合戦もなければ除夜の鐘の音も聞こえてこない。寮の中では年越しムードを味わえないと思い、港で行われるカウントダウンを見に行くことにした。
 オランダの首都が主催するカウントダウンイベントだ。相当な人出を予想して、大晦日の夜10時ごろには会場に入った。
 港で花火が打ち上がるというので、対岸から見物できるような会場を想像していたが、地図を頼りに行き着いた先はただの橋だった。これといった警備はなく、ゴミ収集車が橋の両端を封鎖しているだけだ。何より、観客の姿が一人も見当たらない。本当にここはカウントダウン会場なのか。
 寒風吹きすさぶ橋の上で待つこと1時間、ようやくちらほらと人の姿が見え始めた。どうやら会場はここで間違いなさそうだ。しかし、動線も確保されていないこの限られた場所に人が押し寄せたら、パニックにならないのだろうか。かつて明石市の花火大会で起きた歩道橋事故の映像が脳裏をちらつく。
 その心配は結局、杞憂に終わった。午前0時まで30分を切ると観客が続々と到着し始めたが、押し合いへし合いになる様子は全くない。高身長の人は率先して後ろに下がり、また一人一人が適度に距離を保っているように見えた。カウントダウンを終えた後は、その光景のほうが、大迫力の花火よりもいつまでも心に残っていた。
 日本人が言うような「譲り合いの心」から発生した行動ではないように思う。オランダでの生活のあらゆる場面で、オランダ人は心理的にも物理的にも他人と適度に距離を保っていると感じるからだ。
 決して他人に冷たいという意味ではない。他人が立ち入った時に警戒心を抱くような、人それぞれの距離感を「パーソナルスペース」というが、オランダ人のそれは特に広いと感じる。
 例えば、日本では「行列のできる○○」という触れ込みが客を呼び込む一種の誘い文句となっている。良質なサービスを受けるためなら、順番が来るまで長時間待つことをも厭わないのが日本人だ。
 しかし、オランダのどこを見渡しても、行列ができる場所はない。むしろ行列を作らせない、客を待たせないサービスこそが良質と考えられている。オランダ人が待つことを嫌っているからではなく、広大な公共空間の中でわざわざ列をなしてまで他人のパーソナルスペースを侵すことが耐えられないからだ。
 オランダ人の身体の大きさも影響しているだろう。アムステルダムを本拠とするKLMオランダ航空の航空機は、世界中の航空会社の中で座席間隔が最大だという(エコノミークラスの場合)。オランダ人が日常からトラムや電車を使わず、自転車移動を好むのも納得がいく。
 満員電車に意地でも乗り込み、花火大会では場所取りに躍起になる日本人は「心に余裕がない」という自己分析に陥りがちである。しかし、本当にそうだろうか。「満員電車に乗り込む」という選択も、結局はそれを受け入れられるだけの心理的余裕がなければできないはずだ。反対に、花火の打ち上げ30分前に会場に現れるオランダ人もまた、「会場で待つほど心の余裕がない」のではなく「待たないだけの心の余裕がある」のである。
 パーソナルスペースの広さと心の広さに相関関係は存在しない。本当に心が狭いのは、環境によって異なるパーソナルスペースの大小を許容できない人だ。留学から帰国して、行列や満員電車の中でイライラする人間にはなりたくない。だから、オランダ人はオランダ人で、日本人は日本人で器用に生きているのだと、今から肝に銘じておきたい。

広瀬航太郎(慶應義塾大学法学部政治学科3年)

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