アムステルダム便り ~キャッシュレス社会の衝撃~

 慶應義塾大学から今年8月より1年間、オランダ・アムステルダム大学へ交換留学で派遣されています。
 オランダ人にとっては「当たり前」の国民文化に疑問を投げかけ、その背景を探っていきたいと思います。
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 オランダ人は財布を持たない。

 アムステルダムに到着してから2週間後、大学からの帰り道にオランダ人の同級生とバーに立ち寄った。お互いにビールを3杯ほど飲み、ほろ酔い気分で財布を取り出すと、「自分がまとめて払おうか」と友人が聞いてきた。
 無論、割り勘のつもりでいたので、その申し出を断ると、「でも、ここでは現金払いはできないよ」と告げられた。店内に掲げられた黒板をよく見ると、「No Cash, PIN Only」の文字があった。
 PINとは言うまでもなく、クレジットカードやデビットカードを利用した支払いに必要な暗証番号のことである。しかし、オランダの居酒屋やスーパーマーケットで「PIN Only」の看板がぶら下がっている場合、それは「デビットカードでの支払い以外受け付けない」ことを意味する。オランダでは、このような店がほとんどだ。
 ある日、こんなこともあった。大手のスーパーマーケットで夕飯の買い物をしていた時、レジの側に「Hier alleen pinnen(デビットカード以外ご利用頂けません)」の表示を見つけた。オランダの銀行口座をまだ開設していなかったので、もちろんデビットカードは持ち合わせていない。その日は冷蔵庫にあるもので何か作ろうと諦めて帰路につくと、交通ICカードのチャージ金額が足りないことに気がついた。駅の券売機でカードをチャージしようとすると、画面にはまたもや「PIN Only」の文字が。まさに踏んだり蹴ったりで、泣く泣く歩いて家に帰った。
 オランダでは、今年から公共交通機関の運賃支払いに現金が使用できなくなるなど、「現金離れ=キャッシュレス化」が急速に進んでいる。それだけでなく、飲食業をはじめとするサービス業では、クレジットカードすら取り扱わない店舗も多い。
 なぜ、オランダはこれほどまでにデビットカード決済に依存しているのだろうか。
 一つの要因として考えられるのは、オランダ人が細かい硬貨のやり取りを嫌っているということだ。例えば、現金を取り扱う青空市場のような場所では、58セントの品物に対し1ユーロを支払うと、お釣りとして40セントが返ってくる。つまり、1セントや2セント硬貨は「存在しないもの」とされているのだ。
 オランダ人は、基本的に身軽であることを好み、手ぶらで外出することも少なくない。この国が自転車社会であることも多少影響していると考えられる。自転車を漕いでいる間にポケットの中で小銭がジャラジャラと音を立てていたら、邪魔で仕方がないだろう。欧州には珍しくオランダに「チップ文化」がないのもうなずける。
 もう一つの有力な説は、オランダが「金銭管理社会」であるということだ。この国の人々は、金銭を借りることを避けたがる傾向がある。クレジットカードの利用は、究極的には一時「借金」に束縛されることと同じである。目に見えないお金を際限なく使うのではなく、手元にあるお金から確実に出せる金額だけを支払う。オランダ人は、金銭的にも「身軽」であることを好むのかもしれない。
 ちなみに、英語には「Going Dutch(オランダ式)」という言い回しがあり、「割り勘」の意味で使われる。諸外国からオランダ人は「ケチくさい」イメージで見られていたに違いないが、裏を返せば質素で堅実に生きてきたということでもある。
 財布は持たない主義だという前述の友人に、その日の持ち物を見せてもらった。ポケットから出てきたのは、デビットカード、スマートフォン、自転車の鍵と家の鍵、箱入りの乾燥大麻。これがオランダ人のライフスタイルだ。

広瀬航太郎(慶應義塾大学法学部政治学科3年)

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