岸井さんを悼む
─歴史と環境への視点─

 慶應義塾の、そして毎日新聞の大先輩である岸井成格さんが5月15日、死去した。敗戦前年の1944年9月生まれ、73歳だった。6月18日に如水会館で行われたお別れの会には、福田康夫元首相ら約1000人が参列し、番組で共演した関口宏さんや親友の元ホンダF1総監督の桜井淑敏さんらが業績と人柄をしのんだ。会場で配布された毎日新聞の追悼号外には「時代と向き合い戦った」「記者魂を私たちは引き継ぐ」との見出しがつけられ、毎日新聞のwebサイトでは安倍晋三首相のメッセージが紹介されるなど、追悼には主に政治記者・キャスターとしての側面を伝え惜しむものが多い。しかし、入社以来「教え子」として身近に接していただいていた私としては、岸井さんのもう一つの素顔、歴史と環境への視点こそ、忘れてはならないものだと考える。

〇「もっと大切なこと」

 岸井さんの訃報に接し最初に思い出したのは、2011年6月、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所の学生数名が当時主筆だった岸井さんを訪問した時のことだった。東日本大震災から3カ月、政界にはいわゆる「菅おろし」が吹き荒れていた。政局の話題に備えていた学生の予想を鮮やかに裏切って開口一番、岸井さんが切り出したのは、広葉樹林が広範囲に枯れる「ナラ枯れ」の話だった。「大気汚染が土壌汚染につながり、森林を枯れさせるだけでなく水質汚染につながり、生態系を破壊している。君たちは知っているか」と熱く語りかけた。ポカンとする学生にたたみかけるように岸井さんは「これから記者を目指すなら、もっと長い歴史の中で、人が生きるとはどういうことかを考えなければいけない」と諭した。
 その少し後、同年7月1日に都内で開かれたイベント「啄木学級 文の京講座──啄木の時代が来た」(盛岡市主催)で講演した岸井さんは、東日本大震災が幕末維新、第二次大戦の敗戦復興につぐ第三の転換点であるとの認識を示した上で、石川啄木が母校・盛岡中学校の校友会誌に寄稿した「林中の譚」を紹介し、「自然に対する人間の傲慢さを啄木は百年も前に批判した」とその先見性をたたえ、震災を経験した今こそ啄木の警告を真摯に受け止めるべきだ」と語った。

〇「文明の岐路」

  岸井さんが引用した「林中の譚」は森に住むサルと人間の寓話で、「文明」をかざしサルを見下す人間にサルが投げかける「汝等は常に森林を倒し、山を削り、河を埋めて、汝等の平坦なる道路を作らむとす。然れども其の道は真と美の境──乃ち汝等の所謂天に達するの道にあらずして、地獄の門に至るの道なるを知らざるか」といった言葉に、啄木の自然観や文明観がうかがわれる。2009年に岸井さんが理事長を務めるNPO法人「森びとプロジェクト委員会」から現代語訳の絵本『サルと人と森』が出版され、岸井さんは題字を書いている。
 この本の巻頭で岸井さんは「今、世界も日本も文明の岐路に立っています。歴史的な大転換期です。近代・現代文明が行きづまり、あらゆる分野で矛盾やホコロビが噴出しています。その最先端が、地球温暖化問題です。そのことに対する危機感から、人類の意識も大きく転換を迫られています」と指摘し、「山と心に木を植える」ことの大切さを説いている。 岸井さんは2016年まで毎年、足尾銅山跡(栃木県日光市)でボランティアと植林活動に取り組んできた。その根底には、大きな歴史の文脈の中で日本と世界を考える岸井さん特有の危機感と使命感があったのだと思う。

〇歴史への責任

 思えば、岸井さんと私の出会いも歴史についての会話だった。私が入社した1989年、岸井さんは政治部デスクで新人記者の“教育係”だった。当時はバブル期で100人以上の記者を各部デスクが研修期間中、手分けして記者としての心構えなどを教えていた。私は別グループだったが、飲食店で岸井さんのグループと合流した際、岸井さんが「君は大学時代何をしていたか」と話しかけてきた。私はKDDでアルバイトし主に韓国・中国あての国際電話をつないでいたこと、業務上のわずかな会話からも歴史認識の違いを感じてきたこと、21世紀を迎える前にこの問題に真剣に取り組まなければいけないと思うことなどを話した。以来「教え子」として戦後の歴史や岸井さんの原点である水俣病取材の経験など、さまざまなことを話していただいた。
 岸井さんは保守の人だと私は思う。1944年生まれの岸井さんは、戦後もっとも理想的に掲げられた民主主義の価値観を重んじたという意味で、保守の人だった。だからこそ晩年、歴史認識を捻じ曲げ、民主主義の根幹をないがしろにする動きに敢然と立ち向かったのだろう。啄木の「林中の譚」でサルは人間に「汝らは既に過去を忘れたり。過去を忘れたるものには、将来に対する信仰あることなし。哀れなる人間よ、滅亡の時早晩汝らの上に来らむ」と警告する。岸井さんの教えとして胸に刻みたい。
中島みゆき(毎日新聞記者、東京大学大学院)

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