近代日本と慶應スポーツ展を終えて(1)-上   ~新国立問題の死角が象徴すること~

 2017年11月下旬から12月中旬にかけて、慶應義塾大学三田キャンパス内で「近代日本と慶應スポーツ」と題する展覧会を開催した。タイトルに「近代日本」を冠したとおり、この展覧会では、単に慶應義塾体育会の過去の栄光を称揚するのではなく、スポーツが歴史的にどのように意味を与えられ、その中で慶應義塾がどのような役割を果たしてきたかを、歴史資料を通して考えていただくことを企図した。

 会場冒頭の展示物は、日本最初の病理学書である緒方洪庵の著書『病学通論』(1849年)で、この本は日本で初めて「健康」という語を用いたとされている。慶應義塾の創立者である福澤諭吉は、師である洪庵を通じて「健康」の概念を学び、後に著作中で盛んにこの語を用いた。それにより日本にこの言葉が定着したと言われる。確かに福澤の著作を読むと、文明を語るためにも、民権を語るためにも「健康」が持ち出されている。そして福澤は西洋での見聞を通して、単に座学による知の発展だけではなく、それを支える「健康」をもたらすための、教育としての「体育」が必要であると考えた。知的錬磨を支え、さらに拡張する基礎としての肉体を作ることが重視されたのである。

 日本がちょうど150年前に維新の政治動乱のただ中にある頃、「慶應義塾」という名前がついたばかりの福澤の学校では、食後に「ジムナスチック」が行われ、「運動場」と名のついた中庭には、西洋の最新運動具としてブランコやシーソーが設置されていた。上野で彰義隊が戦争をしていた頃に、ウェーランドの経済書の授業をしていただけでなく、ブランコやシーソーである。これが将来を見据えた福澤の選択であった。「身体健康精神活潑」という福澤の書が残っているように、人間が人間としての最大限の活動を引き出すために、「身体」に着目したわけである。慶應義塾は体育に力を入れる学校としても知られる存在で、春秋に行われる運動会は明治時代の東京名物の一つに数えられたという。つまり義塾の歴史の中の体育・スポーツには、目的意識が明瞭にあった。そして時が流れても、そのような自覚が後輩へと伝播した。スポーツ推薦などで運動能力だけを評価対象として優秀な選手を入学させ学校の名を高めようというのは、慶應らしいあり方ではない、という慶應関係者のコンセンサスの根底には、実はこの福澤由来の精神が脈々と流れているというわけである。そしてそれはこんにち、改めて声高に語っても良いのではないか、というのが展覧会のメッセージの一つであった。教育機関としての慶應義塾は、学ぶために集まった者が運動をし、バランスの取れた人間となることに価値を見ており、すでに運動が得意な者を集めてきて、学ぶことを度外視して学校の看板を背負わせるのは、本末転倒ということになる。このことについては(2)で改めて論じたい。
都倉武之(慶應義塾福澤研究センター准教授)

Authors

*

Top