近代日本と慶應スポーツ展を終えて(1)-下 ~新国立問題の死角が象徴すること~

 会場に展示した資料は約170点。この展覧会の準備過程で、歴史的な資料の所在がかなり確認でき、多くの貴重な実物が残っていることに、企画者の我々が驚いたことは勿論、来場者にもそれを共有できたのは何よりもうれしいことであった。その一方で、資料の実情については悲しむべき事態を随所で目にした。貴重だがとても展示できる状況にないまでに劣化したもの、かつては存在したことが明らかだが、今やどこにあるかわからないものも少なくなかった。今後どうなるかわからないので大学で保管してくれと頼まれることも多くあった。

 展示に当たって資料をお借りした、秩父宮記念スポーツ博物館が現在置かれている状況は憂うべき最たるものである。資料借用のお願いを進めるうちに同博物館が存続の危機にあることを知った。この博物館は、現在足立区綾瀬の貸倉庫に仮住まい中で、かつては国立競技場のスタンド内にあった。2015年7月、安倍首相によって国立競技場のいわゆる「ザハ案」が白紙撤回され、隈研吾による新たな案が採用されたことは読者も記憶されているだろう。ところが、この新案への変更によって、博物館のスペースが「削除」されてしまったというのである。縮小ではない。削除である。ザハ案の撤回はともかくとして、新計画における計画変更で博物館が削られたことに着目した報道はあったのだろうか。私はそのことを耳にした記憶が無い。

 日本人は伝統を重んじ、古いものを大切にすると思われがちであるが、残念ながらそれは外形上の、言うなれば装飾としての古さや重み、いわばファッションである。実は新しもの好きで、何かが終わればきれいさっぱり水に流し、悪いことがあっても禊ぎをして、新しい年になれば心を入れ替えて「おめでとう」と言う文化である。上手に節目を作って生きてきた文化といえるかも知れない。それはそれで悪くない。しかし、換言すれば物事を歴史的に振り返るという意識が薄い。古いものを残すことは、迷惑な好事家のすることであって、後ろ向きの暗い行為とされがちである。国のレベルで言えば公文書管理の諸問題は喫緊の課題であるが、1945年8月の敗戦直後、占領軍が来る前に資料を軒並み焼いてしまったゆえに検証可能性が大きく損なわれてしまったことなど、典型的である。民間企業における社史編纂の地位しかり。歴史が看板の慶應義塾において「塾史編纂」の役割を与えられている我が福澤研究センターの地位、またしかりである。ましてや流行に敏感なメディア・コミュニケーション研究所の学生を、私のゼミのような歴史を扱うゼミに勧誘することなど、実に大変な難問なのである。

 スポーツ博物館の話に戻ろう。この博物館は1959年の開館で、「日本で唯一の総合スポーツ博物館」(同館HP)である。この博物館には、日本のスポーツの歴史を振り返るときに欠かすことが出来ない数々の実物資料が保管されている。慶應義塾にも無縁ではなく、日吉の陸上競技場に銅像が建つ日本アマチュアスポーツの父・平沼亮三が集めた、草創期の近代スポーツの道具コレクション、アントワープ五輪で庭球部OBの熊谷一弥が獲得した日本初の五輪メダル、ベルリン五輪で銀銅メダルを分け合った「友情のメダル」の片方(競走部の大江季雄選手分)、山岳部OB槇有恒がマナスル世界初登頂を成し遂げたときの登山隊メンバーによる署名入り日の丸、「鬼に金棒、小野に鉄棒」と言われた小野喬(東京教育大を経て慶應に学士入学)のローマ五輪での金メダルなどがその一例で、所蔵資料は6万5000点、図書は14万冊に上る。ザハ案では、同博物館は1.5倍以上拡張され、3600平方メートルに広がる予定であった。ところが、現状では「スポーツの宮様」として知られた秩父宮殿下の資料だけを展示する記念室わずか100平方メートルだけになってしまったという。仮移転中の倉庫の契約は、オリンピック前に切れる予定で、所蔵資料の旧蔵者からは寄贈資料返却を求める声も上がっているという。
 2020年に巡り来るお祭りの影で、歴史資料を保存公開する施設がひっそりと閉め出される。あれだけ話題になった新国立問題で、この博物館の問題が特に問題化しなかったところに、「近代日本」が歴史をどのように扱って来たかが端的に表れているように思うのである。2017年12月末、借用資料を返却に伺った時点でも、同博物館の移転先は宙に浮いたままであった。
都倉武之(慶應義塾福澤研究センター准教授)

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