著作紹介 写真集「国鉄蒸気機関車 最終章」

 70歳代の某女流画家から「本を拝見して感動した。貴重な日本の産業史の資料となる写真集だ。デジタルカメラがない時代にどのような機材を使って、どんなフィルムで撮影したのかとても興味を持った」というお電話を頂いた。その一方で、50歳代前半の人たちに見せても、「あー、そうですか。すごいですね」とそっけない。写真集『国鉄蒸気機関車 最終章』(對馬好一・橋本一朗著、洋泉社)に対する反響は世代ごとにまるで違った。
 今、我が国で鉄道ファンが急増している。北海道・留萌本線の留萌-増毛間が廃線になると言えば、全国から普段気動車に乗ったことがないような老若男女が短い線路に駆けつけた。女優の早見優さんと松本伊代さんが京都府・山陰本線の線路上で撮った記念写真がSNSにアップされ、鉄道営業法違反で書類送検されると、その近くの踏切が観光名所になった。東京周辺の私鉄やJR沿線では、ホーム端から走行中の電車を撮影する若者の姿が各駅で見られる。こうした人たちが蒸気機関車の勇姿を見たがっているのかと思っていたが、案外そうでもないらしい。書店の店員さんに聞くと、「電気機関車や特急電車、新幹線電車の写真集はよく売れるが、蒸気機関車はそれほどでもない」という。
 「なぜだろう?」と考えていたところ、平成29年3月12日付産経新聞読書欄に、前原誠司元外相による本書の書評が掲載された。その書き出しには「動態保存を除き、蒸気機関車牽引の最終旅客列車は昭和50年12月14日、貨物列車が同月24日だった」とあった。 http://www.sankei.com/life/news/170312/lif1703120016-n1.html

 現在54歳の前原さん自身が13歳の時のことだ。勇壮に煙を吐いて列車を牽く黒い鉄の塊の躍動に、彼より若い世代の人達は接したことがないのだろう。書評の見出しは「永遠の憧れへのレクイエム」。蒸気機関車は、歴史上のエポックとなってしまっている。
 昨年3月末、「満鉄会情報センター」がひっそりと解散した。戦前の日本が「ユーラシア大陸を横断し、東京-ロンドン間を高速鉄道で結ぼう」と満州国(現・中国東北部)内に建設した南満州鉄道(満鉄)にかかわった人たちのOB会「満鉄会」の終焉だった。戦後70年を経た今日、会員数が激減し、その使命を終え歴史を閉じたのだ。
 大陸横断こそなしえなかったものの、満鉄の看板列車だった〔あじあ号〕を牽引する蒸気機関車の斬新的な流線型スタイルと時速130㎞での高速運転は、当時の満州経営の象徴であり、日本で発達した鉄道技術の発露だった。この鉄道は今の新幹線と同じ標準軌(軌間1435㎜)だったが、その技術を継承した日本国有鉄道(国鉄)の特急用蒸気機関車C62は昭和29年、狭軌(同1067㎜)の線路上で時速129㎞を達成。39年には東海道新幹線が開業し、日本の鉄道は世界の最先端へと躍り出た。明治26年に初めて新橋(後の汐留)-横浜(現・桜木町付近)間を「陸蒸気」が走って以来、積み上げてきた技術力の結集だった。
 私たちが撮影した時期は主に昭和43~47年。例えば、本書85㌻に収録している秋田県・横手駅で43年7月21日に撮影したC57 163の写真の説明文に「この撮影の数カ月後に廃車となった」と記載したように、多くの機関車が撮影直後に廃車・解体されるという、まさに日本蒸気機関車史の「最終章」だった。
 その当時、青春時代を迎えた私たちは、35㎜白黒フィルムと交換レンズを装備したカメラを手に、北海道から鹿児島県まで全国の鉄路に最後の煙を追った。ある読者からは「当時高校生だったはずの貴方たちが勉強もせずに何をしていたんだ」という疑問を頂いた。事実、授業やクラブ活動がない日は殆ど夜行列車に乗り、地方の線路脇でカメラを構えていたのだから、反論はできない。  しかし、全国に広がる路線と、当時の国鉄に在籍した全19形式の走行写真を網羅したこの本は、冒頭の芸術家から頂いた言葉通り、「歴史的価値がある」ものと自負している。
 計5,000コマのネガの中から約280点を選んで掲載した。撮影した時は2人で相談して撮ったものではない。同じ趣味を持っていることはお互い知っていたが、一緒に撮影に行った回数はごく限られている。そして、それぞれが撮った写真は現像をしたものの、ダンボール箱などで押し入れに突っ込まれたまま。大学生、社会人として忙しい日々を送った。いつしか40年以上の歳月が流れ、共著者の橋本さんが北海道・中標津町の某写真店で安くデジタル化できることを発見した。ネガではとても見られなかった画像をパソコン上で比較検討することができるようになり、幸いカビなども少なく、写真の整理が一気に進んだ。
 ネガケースに撮影年月日、場所などのデータが残っていたのが幸いし、洋泉社から出版の勧めが舞い込み、そのおかげで日の目を見ることができた。編集者の指導・協力を受けながら、2人の写真を持ち寄って分類し、若干の補正、記事執筆等を分担した。さらには勤務先の会社で印刷も請け負った。収容した写真の枚数は2人でほぼ半数ずつ。平成29年1月12日に書店に並び、手に取ってくれる人を見たときは、何か責任を果たせたような気がした。
對馬 好一(サンケイ総合印刷株式会社 代表取締役社長)

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