3月11日午後2時46分、とてつもない大地震が戸倉小学校を襲った。すぐに教頭が緊急放送を行おうと職員室後方へ歩き出したが、途中で床に倒れ込んだ。揺れの大きさと長さから、予想されていた宮城県沖地震が発生したと直感し、大津波の恐怖に見舞われた。10分以上の猶予があるかという思いが頭をよぎる。その時、倒れていた教頭から「高台ですね。」と声をかけられた。その声に勇気づけられて、「高台に避難する。ただし、校庭への一次避難は省略。直接高台へ避難。」と指示した。
実は、戸倉小学校では、二年間、津波警報時の避難について、10数分かかる高台にするか、すぐに避難できる屋上にするかを協議してきており、双方の利点を考えて、発災時の校長判断で「高台」「屋上」を決定するという複線型のマニュアルに変更して、訓練も行う事になっていた。屋上避難はすぐに避難が完了する反面、大津波では孤立を余儀なくされ、二次、三次避難が不可能になる。津波がくるまでの時間がかせげるなら、高台避難を行うのがよりよい避難となるのである。しかし、東北大の津波シミュレーションでは最短3分程度で襲ってくるという情報が頭にこびりついていた。そのため、マニュアルの一次避難をカットし、必死で高台へ避難した。
当時、1,2年生はすでに放課しており、校庭で遊んでいた者を連れて91名の避難となった。(14名が所在不明)高台まで10分あまり、津波の影に怯えながら、海を振り返りながらの避難となった。玄関先でラジオにて津波警報(6m)を確認、高台へ到着したのは15時少し前である。所在不明者の内7名は、メールで戸倉中への避難を確認。残り7名が個別に高台避難を行っている事を祈る。地域住民が乗用車等で続々と集まり、高台は170名を超える人数となった。消防団からヘルメットと拡声器が校長に渡され、以後、全体への指示を校長が出すように依頼される。
15時、非常勤講師から、年休中の夫のため帰宅したいとの申し出を受ける。大津波警報を理由に止めたが、引きとめることができず、これが最後の別れとなった。その後大津波警報が10m以上に変更となる。
15時24分頃、遠くに見えていた波が大きくなったかと思うと防波堤が倒されたようにみえた。耳をつんざく重機のような音とともに、住宅地が、思いのほか低い壁のような波に押しつぶされ煙をあげながら破壊されていく。この時はまだ高台にいるので安全であるとの意識があった。
しかし、高台へ近づいた波は突然大きくふくれあがり始める。教務主任に、「ここで大丈夫だべか」と声をかけられ、頭のスイッチが切り替わった。拡声器で、高台よりさらに高い場所にある五十鈴神社まで駆け上がるよう指示を出した。ばりばりという大きな音が、後ろから追ってくるように聞こえてくる。ふりかえると、乗用車や二階建てのアパートが津波に流されて消えていった。周囲は水に囲まれ、五十鈴神社は島のように孤立した。
神社前で点呼、91名全員を確認。あとから判明したことであるが不明であった児童7名も、3名は高地の自宅へ帰宅、4名は高台までの避難を行っていた。しかしその中の女子1名は、安全と思って避難した高台で津波に襲われ命を落としている。その後も繰り返す津波と余震に恐怖しながら、神社境内で夜をすごし、翌日の戸倉中学校への移動を経て、安全な登米市までの避難は2日後のことになるが、詳述は後の機会に譲る。
今回の避難について振り返り、海のない埼玉県出身の自分がなんとか命をつなぐ避難をすることができたのは、何よりもまず、2年間の津波避難についての協議があげられる。津波被害のレッドゾーンに建つ本校の安全な避難を考えた時、屋上か高台かという課題は、決めることができない難題であった。これに対し、教職員全体が互いに妥協することなく、津浪避難の対応を協議してきたことで、避難の基本的な考えが身体にしみこみ、正解のない判断を行う際にも、集めうる情報から、短時間でベターの判断を行う事ができた。つくづく何でも話ができる職員集団であったこと、地域に精通している職員が多かったことが幸運であったと感じている。
また、日頃から地域と協働で教育を進める活動を30年間続けてきた学校であり、地域と学校の関係が深かった事や地域がまとまっていた事が、意志決定や地域との連携活動を円滑に行う面で大きな力となったと感じる。
最後に、自然災害のマニュアルは完全であると思ってはならない。想定外もありうる事を常に覚悟し、その時に臨機応変の行動をとれるような心構えをしておく必要がある。本校は、高台への避難が完了すれば絶対の安全と伝えられてきた。しかし、校舎屋上にも達する津波が高台を襲い、海を見つめていた事から数分の幸運で命を拾うことができた。人間の力に奢らず、自然の理解を深めながら、自然との共生をめざす防災が求められるのではないだろうか。
麻生川 敦 (東向陽台小学校長・前 戸倉小学校長)