見渡す限りの平地を前に「この土地ははじめから更地だったのですか?」と尋ねる人。震災直後は被災物の山、そして震災前は商業施設や住宅地が並ぶどこにでもある街並みが広がっていたことは、語り継いでいかなければいつか人々の記憶から風化し失われてしまいます。 南三陸ホテル観洋では、震災を風化させないため、そして一人でも多くの人々に防災・減災について考えて頂くため、「語り部」活動と「震災遺構の保存」活動を積極的に行っております。
東日本大震災後、南三陸町は復興推進事業として、観光まちづくりを戦略の柱のひとつに据えています。元々漁業が盛んだった南三陸町は、以前は第一次産業が主流の町でした。2008年の宮城県初のデスティネーションキャンペーンをきっかけに、町の魅力を見つめ直し観光を盛り上げようとする動きが醸成されつつありましたが、その矢先に東日本大震災により町全体が甚大な被害を受けました。
震災以前から町の産業の中核であった養殖などの水産業は、震災の津波により壊滅的な被害を受けたものの、現在は震災前の9割の生産量にまで回復しました。しかし観光事業に目を向けると、かつて町の中心部だった地区は未だインフラ整備を進める段階であり、従来のような観光客の受け入れ体制は整っていないのが現状です。
東日本大震災より6年経とうという現在もインフラ整備の最中にある南三陸町ですが、ホテル観洋では震災から間もない2011年9月、被災物が撤去されたものの信号も標識もない道路で、「震災を風化させないための語り部バス」の前身となる、町内ガイドの取り組みが始まりました。この頃は団体や企業の方々が乗ってきたバスに同乗し、自らも被災したホテル従業員や町民が、道案内や語り部を行っていました。個人のボランティアや観光客が増えるにつれて、貸し切りバスに乗って来ない個人向けの語り部ガイドを求める声に応え、2012年2月よりホテルのバスによる「震災を風化させないための語り部バス」の運行が始まりました。この頃より個人客一人でも乗車可能となり、2017年2月現在、個人客の乗車人数は10万人を越え、団体客の体験者人数を含めると30万人以上の人々に「語り部バス」にご乗車頂いています。
南三陸ホテル観洋では、民間企業ではありますが震災遺構の保存にも努めています。親会社である株式会社阿部長商店が所有する冠婚葬祭会館「高野会館」は、海岸に程近い場所にあり、震災当時津波が最上階の4階下まで押し寄せました。しかし集会を開いていた地元のお年寄りら約330人は、当時の会館のスタッフの誘導により屋上へ避難し、館内に残ったすべての皆様が救助されました。
南三陸ホテル観洋の語り部バスは2012年2月より開始されましたが、当時は報道で知られる防災対策庁舎や戸倉小学校の他、高野会館の目の前にあった公立志津川病院など、周囲に震災の爪痕を残す建物が残っていました。「震災を風化させないための語り部バス」は、これらの建物をまわり運行しておりました。しかし小学校、病院と周囲の建物が次々と解体されるにつれ、利用客の反応が鈍くなっていきます。震災前、そして震災当時を知らない人々にとっては、目で見てわかるものがなければ津波による被害と防災の重要性が伝わりにくいためです。冒頭の言葉も、そんな状況の中で聞かれた言葉でした。震災当時会館で助かった町民や、視察に訪れた専門家からも震災遺構として高野会館の保存を望む声が多く寄せられ、南三陸ホテル観洋は震災の教訓を次世代に伝えるため、建物の保存に取り組んでおります。
語り部事業の目的は、南三陸のホテル観洋の「語り部バス」の正式名称にもある通り、震災の記憶を風化させないこと、そして防災意識の向上であります。
インフラ整備が進むにつれ、南三陸町の様相は日々変化しています。被災物は撤去され、建物があった場所は盛土が行われています。南三陸町を訪れただけでは、町が今も復旧・復興の最中にあることはわかっても、震災当時どのような被害があったかを知ることは難しくなっています。だからこそ、被災者自ら被災地を案内し、写真や経験談を交えながら当時と現状を伝える「語り部」が求められていると考えられます。
ホテルスタッフによる語り部では、最後に必ず「ここで見聞きして感じたことを、周囲の人々に伝えて欲しい」と呼びかけている。復興の妨げになるのは何よりも人々の無関心です。震災の記憶を風化させない為には、より多くの人々にあの日何があったか、その後どうなっているのかを知ってもらえるよう、発信していくことが重要と考え、これからも語り部活動を継続して参ります。
東北にお越しの際には、是非宮城県南三陸町へお立ち寄りくださいませ。
南三陸ホテル観洋 阿部憲子